2008年 03月 09日
88年の7月28日~31日にかけての夏期合宿は 「木水児童画ベンキョー会」と名付けて3泊4日で利賀村で開催された。この合宿に参加した人数は23名で木水育男の先輩である中村一郎や木水が日本一の保育園と認める野中保育園の野中寿々子の参加も見られ大規模な合宿となった。
①「幼児の絵の見方と指導」-幼児画の見方とその指導-として野中保育園の野中寿々子を講師としながら、野中保育園での実践が話された。
②フィンガーペインティングと絵の指導-低学年の絵の見方-と題して会員である河端小枝子の指導した絵の話が行われた。河端小枝子からは“子どもの喜ぶ顔を求めて美術教育を実践してきた”ことや粘土を大きな固まりで与えたり、赤土の山でのどろんこ遊びをうんとさせてきた。色彩のあるフィンガーペインティングをやって見たら絵画的興味も加わり一層感動を大きくするのでないかと実践したことが発表された。
③ニィル・北川民次指導の児童画を木水育男の解説で紹介された。これらの絵は“自己解放・自己発見・自己実現の絵であり、建物が生きてており人物の目の方向が違う”と北島良一は利賀村合宿速報かわら版で述べている。
④特殊学級の絵-私の実践-塚崎恵子指導の児童画(前述)が発表された。⑤石川良平指導の児童画(後述)の実践も発表された。
⑥世界児童画展の公開審査会が行われた。この世界児童画(7月28日~8月12日)は木水が長年かかって集めた木水コレクションを展示したものである。司会を木水育男、審査員北島良一、木下勝子、小木久美子、塚崎久子、矢佐洋子であった。「いちばんはっきりと自分の生活をみ、それを美しく、たのしく、しっかりあらわした児童画」を選ぶと言う羽仁五郎の言葉を合い言葉に絵は選ばれた。一番票を集めたのはロイス・ロード女史指導の建物と街角の絵で4票を集めた。
5、「石川良平指導の児童画展」について
88年の利賀村の宿泊研修で注目を浴びた石川良平の武生第三中学校時代の仕事を「石川良平指導の児童画展」として88年9月10日~15日にかけて武生市文化センター小ホールで開催した。 石川良平が88年に退職したこともあり彼が指導してきた武生第三中学校時代の絵を整理し、その中から120枚の良いものを選び出し“木水児童画コレクション”に入れ、「石川良平指導の児童画展」を開催したのである。この展覧会は木水育男が全力をあげて取り組み、特にベンキョー会の中の国定秀行が中心となった。120枚の絵の中から40枚に絞り、その絵をスライ 田辺伊男 花 14歳 ドにした。そして、その石川良平指導の児童画のスライドを木水自身の全国の友人に送った。久保貞次郎や大野元明、高森俊、平子芳徳、中村一郎を始め福井創美の仲間からスライドを見ての感想や感動の手紙が次々送られてきた。そのいろいろな友人からの反響をパンフレットに丁寧にまとめたのだ。その中で筆者が一番印象深く覚えているのは、アイオーの「信じられない!、信じられない!、信じられない!信じられない!・・・と40度も絶句した。ちっぽけな日本の片すみの福井のまたその片隅で、しっかり捕まえられたこの人間の魂。世界一管理されたこの日本社会の中で天国を自由自在に羽ばたく天女のような魂。・・・」と言う感動と激励の手紙である。
木水育男は石川良平のことを「これほどの絵を描かせた石川良平とはどんな教師か。彼はまず教師社会では徹底した教師らしからぬ教師であった。それでいて本当の教師になりたいといつも願っていた教師である。この矛盾は教師生活の晩年まで彼の心の奥で葛藤し、苛まれ続けたようだ。-中略- 彼が児童画に熱中し出したのは、ぼくが退職した年、彼が武生三中に来てからではなかろうか。ぼくが彼の指導した子 楓 陽子 黄色い道 14
どもの絵を見たのも三中へ来てからだと思う。しきりに絵を持ってきて見せてくれたがそれほどではなかった。-中略- それから2~3年は来る日も、来る日も、コンプレックスをはき出したような子どもの絵を持ってきた。彼がその出口を見つけたのは、このスライドにもあるホタルの絵が出来てからである。ある日曜日、ホタルの絵を額縁に入れて持ってきた。ホタルの絵は自己抑制的な絵で柔軟なデリケートさがあり、微妙な感情が誠実に整理されて、その優しさに目をみはった。この絵は観察の目で眺めたホタルではない。ホタルの群の中で見るホタルを描いている。チカリ・チカリと光るホタルの光だけを描いている。詩情に心ひかれた。たった一枚の絵でも優れた絵が実現するのは、指導者の実力の総和である。そしてその絵によって飛躍するものだ。石川はこのホタルの絵を見て、自らを発見し身のほどを知ったのであろう。長年の苦悩の出口を見つけたのであろう。そして、美術教師石川はスタート・ラインに立ったのである。ホタルの絵で自信を持った石川は、次々と爆発的に力作を見せてくれた。あるとき、ぼくは、石川の授業を見に行ったことがある。予想を裏切って教室は静かであった。その静けさも抑制された子どものささやき声が、ちょうど蜜蜂の羽音のうなりのような弾力のある落着きをもっていた。その中で、石川は動物園の熊のように子どもたちの机の周囲を巡り『優しいね』『愛がある』『描くことは再び愛することだとヘンリー・ミラーはいった』『愛は太陽のようだ。いかなる暴力もかなわない』と、授業の始めから終わりまで『愛』と『優しさ』を繰り返し、くり返し語り続けた。それは、子どもへの激励でもあるが、石川自らに対する祈りのようでもあった。-中略- しかも注目するのは、そのぬたくりにも、花にも、お化けにも、どの絵にも『私』がいることだ。この私はよほど自由な感情のふんいきの中でないと出ないものだ。何を描いても、どのように描いても、許される安心感がなければ出ないものだ。-中略- 石川は人間の愛を信じ、人間の優しい感情を信じ、自己を救う道はそれしかないと信じている。愛も、優しさも人間の感情だ。愛も優しさも頭で教えられるものではない。だから石川は子どもの頭にでなく、感情に呼びかけ、子どもの絵の中に優しさを見ようと彼の全精神を傾ける。感情は動的である。極めて柔軟でデリケートで微妙な指導が要求される。石川の微妙な指導こそ教育である。・・・」と石川良平指導の児童画の世界-スライドを見てー(88 年9月発行)のパンフレットの中で述べている。
6、石徹白の夏合宿
89年の夏合宿は岐阜県の石徹白で8月25日~28日に行われた。合宿のテーマは“子どもの絵を「心理的」に見よう”というものであった。「会員一人ひとりが自分自身の内部をみつめる。そして、私は何が出来得るか見つけることだと思う。今後4~5年間のビジョンを描くこと。」と目標としていた。それは、ちょうど木水育男が「君たちは、ぼくのところ来るようになって9年だよ」と言ったことと符合する。
7、「ヘンリー・ミラー素朴絵画展」
同89年には11月26日~12月9日にかけてアールギャラリーで開催された「ヘンリー・ミラー素朴絵画展」も実に印象に残る企画であった。同時企画としてヘンリー・ミラーについての講演会を木水育男を講師として、武生市公会堂の会議室で行った。木水育男の独特の語り口に誘われながら、ヘンリー・ミラーの自由な生き方や絵の魅力を学んだ。自由を希求する心の大切さや“描くことは再び愛すること”と言うミラーの言葉は我々の合い言葉になり、今で絵を描く意味を教えるときに使うことがよくある。
8、「白山小学校第一分校」での木下勝子の実践
1987年に 武生市安養寺町にある白山小学校第一分校に木下勝子は転勤になる。ちょうど「木水児童画ベンキョー会」のメンバーとして熱心に行きだした頃と重なる。自宅から12㎞離れた山を越えた所にある学校だったので、最初は不満に思っていたということである。ところがここでの生活は木下勝子にとって最高の素晴らしい思い出になっていく。大規模校からいきなりこの小さな学校に来て、最初はカルチャーショックを受けたが、1年生の子ども15人を受け持ち、自然に恵まれた環境の中で、素朴そのものな子どもたちと、少人数で生活し、真に一人一人を大切にしながら子どもの個性を引き出す教育ができたようである。「どの子も実に個性があって、この子ども等と毎日過ごしているのが楽しいのです。人数の多い学級の中だったら、持っている豊かな個性も埋もれてしまうかもしれません」と述べている。豊かな自然とともに体験学習を十分にしながらの分校の教育実践であった。
①分校展覧会や、②木水育男の講演会、③「玄関に掲げてある子どもの絵を見て歩き」④「わが子の絵を当てよう」、⑤「子どもの絵を見る会」、⑥「親子で絵を描く会」、⑦「子どもの絵を年賀状に」など地域に根ざした活動は続いた。このように、木下勝子はいろいろなアイデアーや工夫をしながら子どもの絵を家族の生活の中心にしていく試みを行った。それが、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会につながっていくのである。
10、道鎮幹夫展
92年の4月5日~18日に新しく移転したアールギャラリーの最初の展覧会に道鎮幹夫展は開催された。道鎮幹夫は木水育男の福井大学教育学部付属養護学校時代の教え子である。自閉症でなかなか集中して絵の描けなかった道鎮は、小学部の時に亀井浩や瀬川文子のねばり強い指導のなかで絵を描けるようになり好きになった。中学部では岡田先生という道鎮のことをよく理解した先生に貼り絵を教わりその才能を開花させてきた。絵は素朴で小学校の3、4年の子どもの絵のようで、内部から光り輝くような光があり、見るものをこころよい世界に誘い込む。まさに、自分の内面を耕し続けるような仕事である。
11、河端小枝子児童画展
河端が退職したことを契機にアールギャラリーおいて河端小枝子児童画展はおこなわれれ、92年の8月と10月の前期・後期あわせて4週間100名の児童画を展示した。王子保小学校に転勤してからの6年間の実践を中心しての展覧会であり、木水育男からも展覧会の挨拶の中で「おおらかで楽しく神経質でないのは日本の児童画としては珍しいね。多分河端さんの気質が子どもに影響したのでしょう。創美がさかんなころに現れていたら、両手をあげ大きな声で感嘆しただろうと思われる」と賛辞を送った。
Ⅲ、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会の結成と活動
1、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会の結成まで
白山小学校第一分校での木下勝子の活動と神山小学校での田中澄子の活動が合流する形で、いよいよ「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会は結成される。
これは、なかなか自立していかない「木水児童画ベンキョウー会」のメンバーにたいして木水は「ベンキョウー会も10年経った、自分らでがんばれ」と言い会を解散した。そのように、それぞれが自立して活動するよう木水が後押したことや、この当時の教育長が「わが町に子どもの絵を!」の活動に対して、児童画に対する無理解もあり「答案用紙を町中に貼るのと同じだ」と発言し拒否したことも、この活動を本格化させる一因となった。 第一回子ども児童画展での記念撮影
白山地区の辻利博、下野節、藪上和代や神山地区の棚田政治、牧野美紀や、喫茶店のマスター岸本人司たちが木水の提唱に賛同し、教師だけでなく、保護者や市民にも積極的に参加してもらいながらの会結成になる。
2、第一回 子ども児童画展の開催
1994年8月2日~6日にようやく念願かない、第一回の絵をかける会主催の子ども美術展が文化センター・小ホールにて開催された。木水の第一声は「いい展覧会になったね。これだけの展覧会は他にないよ。みる人が見るとわかる。」「ここまで来るのに20年かかった。長いざー、やっとたどりつ 絵を見る会での木水と辻会長 いた。」と歴史を述懐するように語ったそうである。
もちろん絵を見る会も行われ、辻利博会長の名司会のもと、参加者一人ひとりの好きな絵の感想が述べられたり、木水の絵の見方の指導もあり、ユーモアたっぷりの始終笑いに包まれた会になったようだ。「子どもの絵はハートで見るのです。大人の心が柔軟でないとみえてこない。子どもに好きなことを、好きな方法で充分やらせる。大人がああ描けこう描けと口出ししてはいけない。子どもがマンネリ化したしてきた時、親や教師が必要になってくる。それまではじっと見守って待ってやることで、子どもはひらめき、また冒険をはじめる。」と言うことを述べている。
田中は「申し込みをされた家から絵を集め、パネル運びに、組立てと何でもテキパキとこなすお父さんやお母さんのパワーに圧倒されました。『いつでも絵が描ける状態がいいんじゃないか。』と発案し、いろいろな道具も運んでくださいました。展覧会が始まると、朝から夜まで受付としてやさしく迎えてくれました。こんな自然でほほえましい雰囲気で展覧会ができたのは、お父さんやお母さん方の力です。このつながりを大切にして、いっしょに前向きに歩いて行きたいと思います。」とその時の様子を述べている。 会場には棚田副会長の提案で自由に絵が描ける場を設定し、自由なのびのびした子ども達の絵のある会場の中で絵が描けるようにもした。「会場で描かれた絵はどれも生き生きとして輝いていたのは驚きでした。それは自由な雰囲気で子どもと共感できるデリケートな感情が働いたためでしょうか」と河端小枝子は述べている。 そして、当時児童画を理解せず「わが町に子どもの絵を!」に反対した教育長に理解を求め「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会の結成と活動を認めさせたのも保護者達であった。その後、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会はいろいろな活動を始める。「野外で絵を描く会」や「絵を描こうのつどい」 児童画展の会場で絵を描く
の例会(月一回の公民館での活動)や「世界の子どもの絵の展覧会」、「お店のウインド-で児童画展」、「お総社の境内で絵を描く会」、「あなたのお子さんの絵を見つけましょう」等の色々な企画がやられ今日まで続いてきてる。
そして、木水育男はわが家の玄関に子どもの絵を!!!」の運動と共に、児童画を通して子どもを社会の中心にすえようとする活動は生涯つづいたのである。
おわりに
木水の提唱した「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」の運動は教師、保護者、地域を巻き込みながら、子どもを家庭や社会の中心にすえ、子どもの発言である子どもの絵を玄関にかけることで、子どもの言分に耳をかたむけ、子どもを励まし、子どもを大事にしようとする運動である。最終的には「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」をかける会として発展し、定例の「絵を描くつどい」や夏の児童画展のような風とうしのよい自由な空間で、どこよりもすばらしい児童画が作られた。
矢佐洋子を中心に吉田敦子、塚崎久子、田中貴美代、片山治等の現役教師が「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」をかける会の存続に立ち上がったと言うことを聞く、次の世代への思想の受け渡しがなされ、現役教師達の児童画に対する熱心な取り組みや勉強が、再び強く取り組まれることに敬意をはらう。
また、「市長・議長・教育長室に子どもの絵を!」の運動により、多くの児童画が保管され、30年間もの児童画を保存していることは大変すばらしい成果の一つであろう。ただ、それらの絵は現在残念ながら死蔵のような状態であり生かし切れてない。また、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」をかける会の活動も公民館等の間借り状態であり、恒久的な活動場所ができるば、子どもミュージアムの様な物を作り、自由に絵を描け、色々な児童画をいつでも見られる様な子どものためのミュージアムができればと願う。
参考文献 1、木水育男追悼集 1999年2月20日 「木水育男追悼集」出版発起人会発行
2、木水「児童画」ベンキョー会夏期合宿報告 1988年9月10日
3、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会 会報 第1号~第10号
①「幼児の絵の見方と指導」-幼児画の見方とその指導-として野中保育園の野中寿々子を講師としながら、野中保育園での実践が話された。
②フィンガーペインティングと絵の指導-低学年の絵の見方-と題して会員である河端小枝子の指導した絵の話が行われた。河端小枝子からは“子どもの喜ぶ顔を求めて美術教育を実践してきた”ことや粘土を大きな固まりで与えたり、赤土の山でのどろんこ遊びをうんとさせてきた。色彩のあるフィンガーペインティングをやって見たら絵画的興味も加わり一層感動を大きくするのでないかと実践したことが発表された。
③ニィル・北川民次指導の児童画を木水育男の解説で紹介された。これらの絵は“自己解放・自己発見・自己実現の絵であり、建物が生きてており人物の目の方向が違う”と北島良一は利賀村合宿速報かわら版で述べている。
④特殊学級の絵-私の実践-塚崎恵子指導の児童画(前述)が発表された。⑤石川良平指導の児童画(後述)の実践も発表された。
⑥世界児童画展の公開審査会が行われた。この世界児童画(7月28日~8月12日)は木水が長年かかって集めた木水コレクションを展示したものである。司会を木水育男、審査員北島良一、木下勝子、小木久美子、塚崎久子、矢佐洋子であった。「いちばんはっきりと自分の生活をみ、それを美しく、たのしく、しっかりあらわした児童画」を選ぶと言う羽仁五郎の言葉を合い言葉に絵は選ばれた。一番票を集めたのはロイス・ロード女史指導の建物と街角の絵で4票を集めた。
5、「石川良平指導の児童画展」について
88年の利賀村の宿泊研修で注目を浴びた石川良平の武生第三中学校時代の仕事を「石川良平指導の児童画展」として88年9月10日~15日にかけて武生市文化センター小ホールで開催した。 石川良平が88年に退職したこともあり彼が指導してきた武生第三中学校時代の絵を整理し、その中から120枚の良いものを選び出し“木水児童画コレクション”に入れ、「石川良平指導の児童画展」を開催したのである。この展覧会は木水育男が全力をあげて取り組み、特にベンキョー会の中の国定秀行が中心となった。120枚の絵の中から40枚に絞り、その絵をスライ 田辺伊男 花 14歳 ドにした。そして、その石川良平指導の児童画のスライドを木水自身の全国の友人に送った。久保貞次郎や大野元明、高森俊、平子芳徳、中村一郎を始め福井創美の仲間からスライドを見ての感想や感動の手紙が次々送られてきた。そのいろいろな友人からの反響をパンフレットに丁寧にまとめたのだ。その中で筆者が一番印象深く覚えているのは、アイオーの「信じられない!、信じられない!、信じられない!信じられない!・・・と40度も絶句した。ちっぽけな日本の片すみの福井のまたその片隅で、しっかり捕まえられたこの人間の魂。世界一管理されたこの日本社会の中で天国を自由自在に羽ばたく天女のような魂。・・・」と言う感動と激励の手紙である。
木水育男は石川良平のことを「これほどの絵を描かせた石川良平とはどんな教師か。彼はまず教師社会では徹底した教師らしからぬ教師であった。それでいて本当の教師になりたいといつも願っていた教師である。この矛盾は教師生活の晩年まで彼の心の奥で葛藤し、苛まれ続けたようだ。-中略- 彼が児童画に熱中し出したのは、ぼくが退職した年、彼が武生三中に来てからではなかろうか。ぼくが彼の指導した子 楓 陽子 黄色い道 14
どもの絵を見たのも三中へ来てからだと思う。しきりに絵を持ってきて見せてくれたがそれほどではなかった。-中略- それから2~3年は来る日も、来る日も、コンプレックスをはき出したような子どもの絵を持ってきた。彼がその出口を見つけたのは、このスライドにもあるホタルの絵が出来てからである。ある日曜日、ホタルの絵を額縁に入れて持ってきた。ホタルの絵は自己抑制的な絵で柔軟なデリケートさがあり、微妙な感情が誠実に整理されて、その優しさに目をみはった。この絵は観察の目で眺めたホタルではない。ホタルの群の中で見るホタルを描いている。チカリ・チカリと光るホタルの光だけを描いている。詩情に心ひかれた。たった一枚の絵でも優れた絵が実現するのは、指導者の実力の総和である。そしてその絵によって飛躍するものだ。石川はこのホタルの絵を見て、自らを発見し身のほどを知ったのであろう。長年の苦悩の出口を見つけたのであろう。そして、美術教師石川はスタート・ラインに立ったのである。ホタルの絵で自信を持った石川は、次々と爆発的に力作を見せてくれた。あるとき、ぼくは、石川の授業を見に行ったことがある。予想を裏切って教室は静かであった。その静けさも抑制された子どものささやき声が、ちょうど蜜蜂の羽音のうなりのような弾力のある落着きをもっていた。その中で、石川は動物園の熊のように子どもたちの机の周囲を巡り『優しいね』『愛がある』『描くことは再び愛することだとヘンリー・ミラーはいった』『愛は太陽のようだ。いかなる暴力もかなわない』と、授業の始めから終わりまで『愛』と『優しさ』を繰り返し、くり返し語り続けた。それは、子どもへの激励でもあるが、石川自らに対する祈りのようでもあった。-中略- しかも注目するのは、そのぬたくりにも、花にも、お化けにも、どの絵にも『私』がいることだ。この私はよほど自由な感情のふんいきの中でないと出ないものだ。何を描いても、どのように描いても、許される安心感がなければ出ないものだ。-中略- 石川は人間の愛を信じ、人間の優しい感情を信じ、自己を救う道はそれしかないと信じている。愛も、優しさも人間の感情だ。愛も優しさも頭で教えられるものではない。だから石川は子どもの頭にでなく、感情に呼びかけ、子どもの絵の中に優しさを見ようと彼の全精神を傾ける。感情は動的である。極めて柔軟でデリケートで微妙な指導が要求される。石川の微妙な指導こそ教育である。・・・」と石川良平指導の児童画の世界-スライドを見てー(88 年9月発行)のパンフレットの中で述べている。
6、石徹白の夏合宿
89年の夏合宿は岐阜県の石徹白で8月25日~28日に行われた。合宿のテーマは“子どもの絵を「心理的」に見よう”というものであった。「会員一人ひとりが自分自身の内部をみつめる。そして、私は何が出来得るか見つけることだと思う。今後4~5年間のビジョンを描くこと。」と目標としていた。それは、ちょうど木水育男が「君たちは、ぼくのところ来るようになって9年だよ」と言ったことと符合する。
7、「ヘンリー・ミラー素朴絵画展」
同89年には11月26日~12月9日にかけてアールギャラリーで開催された「ヘンリー・ミラー素朴絵画展」も実に印象に残る企画であった。同時企画としてヘンリー・ミラーについての講演会を木水育男を講師として、武生市公会堂の会議室で行った。木水育男の独特の語り口に誘われながら、ヘンリー・ミラーの自由な生き方や絵の魅力を学んだ。自由を希求する心の大切さや“描くことは再び愛すること”と言うミラーの言葉は我々の合い言葉になり、今で絵を描く意味を教えるときに使うことがよくある。
8、「白山小学校第一分校」での木下勝子の実践
1987年に 武生市安養寺町にある白山小学校第一分校に木下勝子は転勤になる。ちょうど「木水児童画ベンキョー会」のメンバーとして熱心に行きだした頃と重なる。自宅から12㎞離れた山を越えた所にある学校だったので、最初は不満に思っていたということである。ところがここでの生活は木下勝子にとって最高の素晴らしい思い出になっていく。大規模校からいきなりこの小さな学校に来て、最初はカルチャーショックを受けたが、1年生の子ども15人を受け持ち、自然に恵まれた環境の中で、素朴そのものな子どもたちと、少人数で生活し、真に一人一人を大切にしながら子どもの個性を引き出す教育ができたようである。「どの子も実に個性があって、この子ども等と毎日過ごしているのが楽しいのです。人数の多い学級の中だったら、持っている豊かな個性も埋もれてしまうかもしれません」と述べている。豊かな自然とともに体験学習を十分にしながらの分校の教育実践であった。
①分校展覧会や、②木水育男の講演会、③「玄関に掲げてある子どもの絵を見て歩き」④「わが子の絵を当てよう」、⑤「子どもの絵を見る会」、⑥「親子で絵を描く会」、⑦「子どもの絵を年賀状に」など地域に根ざした活動は続いた。このように、木下勝子はいろいろなアイデアーや工夫をしながら子どもの絵を家族の生活の中心にしていく試みを行った。それが、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会につながっていくのである。
10、道鎮幹夫展
92年の4月5日~18日に新しく移転したアールギャラリーの最初の展覧会に道鎮幹夫展は開催された。道鎮幹夫は木水育男の福井大学教育学部付属養護学校時代の教え子である。自閉症でなかなか集中して絵の描けなかった道鎮は、小学部の時に亀井浩や瀬川文子のねばり強い指導のなかで絵を描けるようになり好きになった。中学部では岡田先生という道鎮のことをよく理解した先生に貼り絵を教わりその才能を開花させてきた。絵は素朴で小学校の3、4年の子どもの絵のようで、内部から光り輝くような光があり、見るものをこころよい世界に誘い込む。まさに、自分の内面を耕し続けるような仕事である。
11、河端小枝子児童画展
河端が退職したことを契機にアールギャラリーおいて河端小枝子児童画展はおこなわれれ、92年の8月と10月の前期・後期あわせて4週間100名の児童画を展示した。王子保小学校に転勤してからの6年間の実践を中心しての展覧会であり、木水育男からも展覧会の挨拶の中で「おおらかで楽しく神経質でないのは日本の児童画としては珍しいね。多分河端さんの気質が子どもに影響したのでしょう。創美がさかんなころに現れていたら、両手をあげ大きな声で感嘆しただろうと思われる」と賛辞を送った。
Ⅲ、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会の結成と活動
1、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会の結成まで
白山小学校第一分校での木下勝子の活動と神山小学校での田中澄子の活動が合流する形で、いよいよ「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会は結成される。
これは、なかなか自立していかない「木水児童画ベンキョウー会」のメンバーにたいして木水は「ベンキョウー会も10年経った、自分らでがんばれ」と言い会を解散した。そのように、それぞれが自立して活動するよう木水が後押したことや、この当時の教育長が「わが町に子どもの絵を!」の活動に対して、児童画に対する無理解もあり「答案用紙を町中に貼るのと同じだ」と発言し拒否したことも、この活動を本格化させる一因となった。 第一回子ども児童画展での記念撮影
白山地区の辻利博、下野節、藪上和代や神山地区の棚田政治、牧野美紀や、喫茶店のマスター岸本人司たちが木水の提唱に賛同し、教師だけでなく、保護者や市民にも積極的に参加してもらいながらの会結成になる。
2、第一回 子ども児童画展の開催
1994年8月2日~6日にようやく念願かない、第一回の絵をかける会主催の子ども美術展が文化センター・小ホールにて開催された。木水の第一声は「いい展覧会になったね。これだけの展覧会は他にないよ。みる人が見るとわかる。」「ここまで来るのに20年かかった。長いざー、やっとたどりつ 絵を見る会での木水と辻会長 いた。」と歴史を述懐するように語ったそうである。
もちろん絵を見る会も行われ、辻利博会長の名司会のもと、参加者一人ひとりの好きな絵の感想が述べられたり、木水の絵の見方の指導もあり、ユーモアたっぷりの始終笑いに包まれた会になったようだ。「子どもの絵はハートで見るのです。大人の心が柔軟でないとみえてこない。子どもに好きなことを、好きな方法で充分やらせる。大人がああ描けこう描けと口出ししてはいけない。子どもがマンネリ化したしてきた時、親や教師が必要になってくる。それまではじっと見守って待ってやることで、子どもはひらめき、また冒険をはじめる。」と言うことを述べている。
田中は「申し込みをされた家から絵を集め、パネル運びに、組立てと何でもテキパキとこなすお父さんやお母さんのパワーに圧倒されました。『いつでも絵が描ける状態がいいんじゃないか。』と発案し、いろいろな道具も運んでくださいました。展覧会が始まると、朝から夜まで受付としてやさしく迎えてくれました。こんな自然でほほえましい雰囲気で展覧会ができたのは、お父さんやお母さん方の力です。このつながりを大切にして、いっしょに前向きに歩いて行きたいと思います。」とその時の様子を述べている。 会場には棚田副会長の提案で自由に絵が描ける場を設定し、自由なのびのびした子ども達の絵のある会場の中で絵が描けるようにもした。「会場で描かれた絵はどれも生き生きとして輝いていたのは驚きでした。それは自由な雰囲気で子どもと共感できるデリケートな感情が働いたためでしょうか」と河端小枝子は述べている。 そして、当時児童画を理解せず「わが町に子どもの絵を!」に反対した教育長に理解を求め「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会の結成と活動を認めさせたのも保護者達であった。その後、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会はいろいろな活動を始める。「野外で絵を描く会」や「絵を描こうのつどい」 児童画展の会場で絵を描く
の例会(月一回の公民館での活動)や「世界の子どもの絵の展覧会」、「お店のウインド-で児童画展」、「お総社の境内で絵を描く会」、「あなたのお子さんの絵を見つけましょう」等の色々な企画がやられ今日まで続いてきてる。
そして、木水育男はわが家の玄関に子どもの絵を!!!」の運動と共に、児童画を通して子どもを社会の中心にすえようとする活動は生涯つづいたのである。
おわりに
木水の提唱した「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」の運動は教師、保護者、地域を巻き込みながら、子どもを家庭や社会の中心にすえ、子どもの発言である子どもの絵を玄関にかけることで、子どもの言分に耳をかたむけ、子どもを励まし、子どもを大事にしようとする運動である。最終的には「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」をかける会として発展し、定例の「絵を描くつどい」や夏の児童画展のような風とうしのよい自由な空間で、どこよりもすばらしい児童画が作られた。
矢佐洋子を中心に吉田敦子、塚崎久子、田中貴美代、片山治等の現役教師が「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」をかける会の存続に立ち上がったと言うことを聞く、次の世代への思想の受け渡しがなされ、現役教師達の児童画に対する熱心な取り組みや勉強が、再び強く取り組まれることに敬意をはらう。
また、「市長・議長・教育長室に子どもの絵を!」の運動により、多くの児童画が保管され、30年間もの児童画を保存していることは大変すばらしい成果の一つであろう。ただ、それらの絵は現在残念ながら死蔵のような状態であり生かし切れてない。また、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」をかける会の活動も公民館等の間借り状態であり、恒久的な活動場所ができるば、子どもミュージアムの様な物を作り、自由に絵を描け、色々な児童画をいつでも見られる様な子どものためのミュージアムができればと願う。
参考文献 1、木水育男追悼集 1999年2月20日 「木水育男追悼集」出版発起人会発行
2、木水「児童画」ベンキョー会夏期合宿報告 1988年9月10日
3、「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」かける会 会報 第1号~第10号
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